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多くの偉人が五小路にゆかりがありました 

 

新渡戸(にとべ)稲造は1862(文久2)年88日、盛岡鷹匠小路現:盛岡市下ノ橋町)にて盛岡藩士新渡戸十次郎せきの男として生まれた。

妻や恩師に問われていた日本の伝統的な道徳教育についての考えを『BUSHIDO(ぶしどう) THE SOUL OF JAPAN』としてまとめて出版。 


国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され、スイスに渡り連盟の発展に寄与した。

 

瀬川安五郎は1835(天保6)年727日、盛岡肴町にて両替屋を営む4代目油屋惣助、ミツの子として生まれた

秋田県仙北郡荒川鉱山を買い取り、全国5位となる産出量を稼ぎ出した。


 瀬川は日本画家の平福穂庵・百穂親子への援助や、現在盛岡市の保護庭園となっている南昌荘を建てるなど、文化的な側面で活躍したことでも知られている。

 

瀬川正三郎は1890(明治23)年214日、盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの男として生まれた。

荒川鉱山を経営していた瀬川安五郎は正三郎の大叔父であり、幼いころは大叔父の住む
南昌荘で育った。

1931(昭和6)年には加賀野の自宅で整骨院を開業、小中学生や生活に困った人からは料金をとらずに治療を施した。

 その人柄を慕う教え子たちや消防団団関係者の醵金
(きょきん)により、逝去後の1975(昭和50)年12月に、中津川河畔の毘沙門橋西側の脇に胸像が設立された。

制作は船越保武、裏面の碑文は吉丸竹軒の書である。

 

葛西萬治は1863(文久3)年721日、盛岡上衆小路(現:盛岡市下ノ橋町)にて盛岡藩士鴨澤舎の次男として生まれた

 1903(明治36)年8月、辰野金吾とともに辰野葛西建築事務所を開設する。同事務所が手掛けた建築には東京駅をはじめ商店や学校などがあり、件数も90件を越えている。

その中には、現在国指定重要文化財に指定されている岩手銀行中ノ橋支店(旧:盛岡銀行本店)も含まれている。

  田子一民(たこいちみん)は1881(明治14)年1114日、盛岡肴町にて田子勘治、カネの次男として生まれた。

父の死後、苦学の末に1908(明治41)年に東京帝国大学法科大学を卒業、原敬の斡旋により内務省に就職した。

1924(大正13)年、原敬の遺志を継ぐため同じ選挙区から衆議院議員選挙に立候補、政友会総裁の高橋是清(たかはしこれきよ)と歴史に残る選挙戦を繰り広げる。

1928(昭和3)年の第16回総選挙から連続9回当選し、その間衆議院議長、農林大臣などを歴任した。
 

中村儀三郎は1893(明治26)年719日、盛岡市川原町にて雑貨商を営む中村儀平、コトの3男として生まれた。

盛岡尋常高等小学校(現:下橋中学校)をへて、1907(明治40)年に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)に入学した。同級生には阿部千一、瀬川正三郎らがいる。


 盛岡中学校を卒業後、京都の第三高等学校、京都帝国大学理学部をへて同大学大学院へ進み、日本の光学の草分けとも言える木村正路教授の指導を受けた。

のちには同校の助教授となり、
学生時代の湯川秀樹の物理実験の指導をしている。
 

 

米内(よない)光政は1880(明治13)年32日、旧盛岡藩士米内受政(ながまさ)の長男として三割村(現盛岡市)に生まれた。


 盛岡高等小学校(
現下橋中学校)、盛岡尋常中学校を(現:盛岡第一高等学校)へて海軍兵学校へ進み、後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。

 
1937(昭和12)年、海軍大臣に就任し、海軍次官を務めた山本五十六(いそろく)とともに、陸軍の主張する三国同盟に反対し続けた。

天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者として3人目となる内閣総理大臣に就任している。 

 

石川啄木(本名:一)は1886(明治19)年220日、南岩手郡日戸村(現:盛岡市玉山区日戸)にて常光寺の住職石川一禎、カツの長男として生まれた。

1895(明治28)年、幼きころより優秀だった啄木は岩手郡下に一つしかない高等小学校(現下橋中学校へ通うため、親元を離れて盛岡で暮らす。

その1902(明治35)年に盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)を中退するまでの7年間を盛岡で過ごしている。

啄木は学生時代に文学活動にいそしむ。金田一京助を介して与謝野鉄幹が主催した『明星』に親しんだのもこのころである

 
 

金田一京助は1882(明治15)年55日、南岩手郡仁王村四ッ家町(現:盛岡市本町通)にて金田一久米之助、ヤスの長男として生まれた。

石川啄木とは盛岡高等小学校(現下橋中学校)以来の友人であり、啄木の死まで親交が続いた。

北海道へ行き現地を調査、アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在を明らかにした。


 戦後には国語審議会委員として現代か
なづかい制定に貢献、昭和29年(1954)には岩手県出身者としては2人目となる文化勲章を受章した。

また多くの辞書や教科書の編・監修者としても知られている。

 
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